視力と色彩
[編集] 正教会の展開 詳細はロシア正教会、ギリシャ正教会、ルーマニア正教会をそれぞれ参照 ここではロシア正教会と、ギリシャも含めたバルカン半島における正教会の、近現代史の一部概要のみを記す[50]。 視力回復 ピョートル大帝以降のロマノフ朝の西欧型近代化政策により、ロシア正教会は国家の保護に入ると共に国家の強力な統制を受ける事となった。1721年にはモスクワ総主教座が廃止される。このような統制下でも、18世紀後半にはアトス山から正教修道精神の復興が起きた事も影響し、ロシア正教会の修道精神はなお盛んであった。この頃の著名な修道士にサロフの聖セラフィムなどがいる。 おまとめローン 西方教会の影響を脱し正教の伝統的な精神を復興する事が企図された、正教聖師父の信仰を伝える書『フィロカリア』が1792年に出版されると、1793年には教会スラヴ語に翻訳され、ロシア正教会の精神的な再生に寄与した[51]。 クレジットカード 比較 1931年、スターリンの命令によって爆破され、崩れゆく救世主ハリストス大聖堂20世紀になると共産主義革命によってロシア正教は大きな打撃を受け厳しい状況を耐え忍ぶことになった[52]。弾圧の程度は時期により強弱はあったものの、恒常的に教会は強力な弾圧の下にあった。聖堂外で司祭が祭服を着用して儀礼を行う事は許されず、墓地で正教会の司祭が埋葬の祈りを行う事すらも禁じられていた。それでもロシア正教会は一定の存在力を示し続け、1961年には世界教会協議会に加入した。ソ連崩壊後は、急速に勢力を回復している。 カードローン 比較 オスマン帝国の支配下にあった地域にあった正教会はコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にあったが、1830年にギリシャが王国として独立した事に伴い、ギリシャ正教会はコンスタンディヌーポリ総主教庁から1850年にアテネ大主教を首座とする独立教会としての地位を承認を得た。オスマン帝国の支配下にあったバルカン半島地域がナショナリズムの勃興によって独立国家群を形成していくなか、紆余曲折を経つつ、ブルガリア正教会、ルーマニア正教会、セルビア正教会などが独立教会としての組織を整えていく事になった。これらの教会もバルカン半島における共産主義政権のもとで辛酸をなめた事、共産主義政権の崩壊後に復活を遂げつつあることはロシア正教会と同様である[53]。 ヘッドハンティング 現在、正教会には9つの総主教座がある。その中ではロシア正教会が最大の信徒数を抱えており、教会に通う信徒数が3000万〜4000万人、洗礼を受けた信徒数は約1億人ともされる[54]。このほかの総主教座ではルーマニア正教会の1500万人、セルビア正教会(地域としては旧ユーゴスラビア圏内等)の800万人、ブルガリア正教会の600万人なども抱え[55]、地盤の深さを示している。 履歴書 [編集] 東方諸教会の展開 エフェソスおよびカルケドン公会議が異端として排斥したいわゆる東方諸教会の信徒数は必ずしも多くない。しかし、いくつかの地域ではその地域での最も信徒数の多いキリスト教教派でありつづけている。地域宗教の色彩が濃い東方諸教会ではあるが、19世紀以降、アメリカ合衆国やオーストラリアといった移民の多い国では、移民によって教会が立てられ、信徒の分布は広がりをみせている。 資産運用 [編集] エキュメニズムへの取り組み プロテスタントは、1910年にエディンバラで世界キリスト教会議を開催し、カトリックと正教会の代表に加えて、非キリスト教の諸宗教の代表も招き、教会の対話と一致を協議した。その結果、1948年には世界教会協議会(WCC)が誕生し、エキュメニカル運動(教会一致運動)が推進された[56]。プロテスタント諸教会は洗礼・聖餐・職制(叙階)において一致するために「リマ文書」を作成し、それを用いて諸教会の合同礼拝を行っている。また、各国でプロテスタント諸教派による合同教会(United Church)が誕生している(ただし、その要因は主流派諸教会の信徒数減少による)。 エステサロン カトリックでは1960年代の第2バチカン公会議において、エキュメニズムへの取り組みを本格化させた。プロテスタント諸派とは相互聖餐(フル・コミュニオン)の関係樹立を目指して、教派別に神学的作業が進められている。1990年代には、ルーテル派とカトリックの間において、16世紀の宗教改革の最大の争点となった「信仰義認」の教義について、現在の両教会の見解の間には本質的相違が存在しないことが確認されているが、全教会規模での相互聖餐には至っていない。また、聖公会とカトリックの間にも、相互倍餐の関係を模索する動きがあるが、秘跡論の違いに加え、カトリックが同性愛者を否定しているのに対し、聖公会が同性愛者および、女性を司祭や主教(司教)に叙階していることが、両教会の完全な合同に対する越えがたい障害となっている。 また、近世以降カトリックは、ローマの首位権を認めることを条件に、東方典礼という形で東方教会の一部を取り込んできた(帰一教会)。しかし20世紀において、将来の一致を目標としつつ、現状においては東方教会のそれぞれの教派を独自性をもつ教会として扱うにいたった。現在のカトリック教会は、すべての東方教会の信徒に、やむをえない場合という留保つきではあるが、聖体拝領を認めている[57]。ただし、こうしたカトリックのいうエキュメニズムはたんに他教派のローマ帰一を最終的な目標とするもの(カトリック・エキュメニズム)であり、相互の教理理解に必ずしも基づかないとの警戒も他教派には存在する。 東方諸教会と、かつての正統教会の後裔であるカトリックと正教会、またプロテスタント教会との間の対話も活発化している。正教会と非カルケドン派教会は第2次大戦後以降、おもに中東地区で対話をすすめ、20世紀末には正教会とシリア正教会が教義についての合意を正式に文書で確認しあうにいたった。その文書では、キリスト論などの教義の違いは神学的相違というよりはむしろその表現の相違であり、根底において教義を共有しあっていることを認めた。ただし教会としての全面的な一致にはいたっていないため、教会の方針としては完全な相互領聖には至っていない。 非カルケドン派教会のひとつ、エジプトのコプト正教会は世界教会評議会での熱心な活動で知られ、ことにアフリカ地区での他教会との交流に力をいれている。これは他の教会での礼拝への陪席などを含んでいる。 [編集] 日本とキリスト教 [編集] 歴史 詳細は日本キリスト教史を参照 フランシスコ・ザビエル日本にいつキリスト教が到来したかということに関しては、中国で景教と呼ばれたネストリウス派キリスト教が5世紀頃、秦河勝などによって日本に伝えられたとする説がある[58][59][60]。 史実として確認されている日本へのキリスト教の最初の宣教は、16世紀のカトリック教会の司祭、イエズス会のフランシスコ・ザビエルらによるものである。キリスト教は当時、九州から西日本、近畿地方を中心に多くの信徒を獲得した。この頃、キリスト教徒は「キリシタン」、キリスト教宣教師は「バテレン」と呼ばれた。宣教師に対して好意的だった織田信長の政策を踏襲した豊臣秀吉もキリスト教を保護した。1587年にバテレン追放令を発布した後も、キリスト教は事実上黙認されていた[61]。徳川家康が権力の座についた当初もキリスト教に対しては寛容な態度がとられていたが、1614年に禁教令が出され、以後キリスト教徒の探索と迫害が行われた。激しい迫害によってキリスト教は根絶させられたかのように見えたが、長崎などで一部の信徒が地下にもぐり、潜伏キリシタンとして信仰を守り続けた。 禁教令からおよそ250年後の幕末1865年3月、出来たばかりの長崎・大浦天主堂にてフランス人ベルナール・プティジャン神父(後に司教)の前に隠れキリシタンが現れて信仰告白を行い(信徒の発見と大浦天主堂)、その後、続々と隠れキリシタンが神父の元に詰めかけた。そして彼らが祈りと洗礼の儀式と四旬節などの典礼暦を守ってきたことが明らかになり、「信徒発見」のニュースが欧米に伝えられた。